小沢先生が漫画家への第一歩を踏み出したスタートラインには
手塚治虫先生との運命的な出逢いがあった。
当時の貴重な様子を小沢先生より直接お伺いしました。
―― 1950年代半ば、小沢先生が高校生の頃に手塚先生と出会った経緯を
お聞かせいただけますか。
アルバイトを探していて、知り合いの編集者に「君、器用だから
やってみないか」と紹介されたのが、手塚先生のアシスタント
業務でした。アルバイト先は、かのトキワ荘ではなく、
手塚先生が当時仕事場にしていた旅館でした。
手塚先生からすると異色のアシスタントだったでしょうね。
当時、手塚先生のところでアシスタントするって人は大抵
先生のファンでしょう? でも僕は本当に漫画のことを知ら
なかったんですよ。父親が「漫画家などもってのほか!」と
いう考えの持ち主だったので、ロクに読んだこともなかったんです。
―― マンガを知らないのにアシスタントをするというのはすごいですね
6人兄弟だったから、お小遣いぐらいは自分で手に入れようと
思ったんです。そしたら手塚治虫のところで原稿に色塗りを
したら日当で700円やるって聞いたんです。当時の初任給は
月収7500〜9000円ぐらいで、その時僕がやっていた映画館の
モギリが日当200円でした。
―― アルバイトの時、他に漫画家の先生はどなたがいらっしゃいました?
大部屋では石ノ森章太郎先生、松本零士先生、
桑田次郎先生、
横山光輝先生が作業していましたね。
―― 大物漫画家ばかりじゃないですか
そして僕は小部屋で一人、色塗りなどしていました。
一人でいるもんだから、編集者は何も知らずに
「手塚先生の秘密兵器か!?」などと勘違いされましたよ(笑)。
▲当時の思い出を昨日の事の様に語る先生
―― その手塚先生については、なにか印象に残った
エピソードなどはありますか?
手塚先生といえばベレー帽を被っているというイメージですが
そのアルバイトの時には、もう被ってましたねぇ。
―― 小沢先生が高校生の頃だと、手塚先生は20代前半から
半ばでしょうか?
8歳ぐらい年上だからそうだと思います。アルバイトの合間に、
40分ぐらい2人きりで話をしました。その時伺った「あれも入
れたい、これも入れたいの90%は捨てないと名作はできないん
だよ」という手塚先生の言葉は印象深いですね。
50年以上昔のことを昨日のことのように語られた小沢先生。 漫画の第一人者としての姿に今も脱帽しているとのことです。 そして手塚先生の仰った言葉は、とにかく原稿を描きまくる 小沢先生の漫画家スタイルに影響を与えた金言のように思えます。 『707F』購入特典も膨大な原稿の中から産声を上げたのです。